カテゴリー:思考の断片
2008.4.19
アレクサンドリア図書館とペルガモン図書館
もう何年も読もうと思いつつ放置していたアレクサンドリア図書館の謎を、やっと読み終えました。
あまりの登場人物の多さに面食らいつつも(苦笑)いろんな人々の思惑やこだわりや歴史背景が交錯する様が面白かったです。
この作品は「第1部 伝説」と「第2部 原典」の2部構成になっているのですが、「伝説」の方は、それぞれの章が短編風に語られていて読みやすく、好みでした。
そして、その伝説の中でアレクサンドリア図書館とペルガモンについて比較していた部分がありました。ヘレニズム期の双璧をなす大図書館です。
ペルガモンの研究方針はアレクサンドリアのものとはまったく違っていた。ペルガモンの学者たちは、ストア派の哲学の影響下で、古代のテキストに疑問を提示し、自由に答えを出していた、これはアレクサンドリアの学者たちには鳥肌を立たせるような行動だった。ペルガモンの学者たちは、その破格の理論によって、どんな奇妙な部分もテキストにそのまま残していた。これは放任主義的な基準だが、実際のところは、高名なテキストの章句全体を論難する恣意的態度よりも害悪は少なかった。
これに対し、アレクサンドリアでは「本を分類し、分冊し、書き写し、注釈を加えていた」とのこと。また、その課程で文脈として奇妙だと思われる部分は割愛することもあったとか。
情報をフィルタリングするかしないか、ということがまず大きな違いでしょう。
そして、奇妙だと思われる部分をカットしてしまうか、あるいは寓意的なものとして解釈するか、ということ。
書き写されたり、語り伝えられたり、翻訳されたり、虫食いその他で失われた部分を補足されたりしていくうちに、原書とは異なった記述になっていくことは、ある程度仕方がないことなのでしょう。もしかしたら、原書自体にも著者のミスによる記述がある場合もあるかもしれません。
より、純粋に正しいもの(正しそうなもの?)を残すという意味では、アレクサンドリア方式の方が確実なのかもしれません。でも、奇妙な部分を切り捨てていくということは、確実なものが残るというのはあるかもしれないけど、内容が「細く」なってしまうことはないのかな?と心配してしまいます。
真実はさておき、フィクションとして楽しむんだったらペルガモン方式の方が面白そうです。(笑)
なーんとなく、ネットで氾濫している情報を読み解くことにも似ているなぁ、と思ったのでした。
2008.3.30
言葉という枷
何かモノを創る時、
最初は言葉に頼ります。
言葉を頼りに「思考」や「概念」を組み立てていきます。
それでも、ある瞬間突然、
言葉は途轍もなく重たいものと感じはじめるのです。
色やカタチや音は、
言葉の束縛から逃げ出そうと暴れ出すのです。
言葉をもとに組み立てられた「思考」や「概念」ですら
言葉から逃げ出そうとするのです。
そんな時の言葉は、
気球を地面に固定している
アンカーにも似ているかもしれません。
それでは、言葉を使って表現したい時には
言葉は言葉から逃げられるのでしょうか?
それはわかりません。
でも、逃げたがっている気もします。
それでも言葉を使います。
たとえ一時的なものだとしても。
2008.2.9
アルデンテ
何かの作品と対峙する時、
時々思い出すのが、このキーワード。
キチンと一筋の芯を感じるかどうか。
受け取る私の状態にも左右されると思うけど。
プロ・アマも関係なく。
有名・無名も関係なく。
新しい・古いも関係なく。
どんなにお金をかけていても
どんなに綺麗にまとまっていても
「アルデンテ」を感じないものもある。
どんなにシンプルでも
どんなに荒削りでも
「アルデンテ」を感じるものもある。
自分の好みではない作品でも、
「アルデンテ」を感じる場合だってある。
何故なのでしょうね?